posing
年が明けてから丸2ヶ月が経とうとしている。
既に参差錯絡な時を何度も見てきた。
その度に嬉しく、その度に悲しい。
何のために神経を削いでいるのか。
メインアカウントの方でなんとなく始まった #posing ポスト。
花瓶の水を変える時、どうも既視感がある形相に手が止まる。
その花に見覚えがあるのではなく、
その花の姿自体への既視感。
しばらく手を止め、あ。と、私自身だったことに気づく。
なんとなく始まったそれは、何のために神経を削いでいるのかわからなくなった私への自己肯定剤なのかもしれない。
花たち茎や葉が、背骨や手の動きに見えて仕方ない。
生ものであるそれを、近しい生ものである自分へ投影してしまったのだろう。
この花はあの時の撮影のあのカット、これはだいぶ昔だけどあのカット、この茎はあの時のバックショット、
このアングル死ぬほど撮っとるわ。これ私じゃないけどあの人だわ、名前忘れたけど。
一人でボソボソ呟く自分が気持ち悪い。
花の写真とともに脳に浮かぶその写真も載せたかったが、データを掘り起こすのが大変すぎた為断念した。
選択肢が多くなる。
無くなるものと残るものが別れる。
多様化という言葉の乱用に翻弄される。
やってきたことがきっと無駄にはなりませんように、
この溝に嵌り続けませんように、
という自己肯定が難しい私からの、なけなしの自己肯定剤。
やってきたこと一つ一つを思い出しながらポストする。
きっと参差錯絡な時を、これからも何度も見ていくことになるだろう。
削がれ続けたらまたこのターンに戻ってくることもわかっている。
生ものであるが故、この循環は仕方がない。
力溢れる満開の花も好きだが、枯れようとしている花の方がスクロールしているスマホの写真フォルダに多いことに気づく。
何故だろうと手を止めるが、
それは私自身の死生観の表れとしか思えてならない。