私の寿命は本来40歳前後だっただろう。(たぶん)

淡々と説明をする担当医の話の途中、
心のどこかで「しまった」と思った。
その瞬間から“それ”を口にしようかしまいかで頭がいっぱいで、
担当医の声をきちんと聞いていたか定かではない。

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何度か医者に通い検査を重ね、
その度に身体の現状を知る。

このまま何も施しをしなかったら、
私の寿命は本来40歳前後だっただろう。(たぶん)
その数字が妙にリアルで、帰りしな失笑した。

体内から採取した細胞のプレパラートは分厚くて鞄の中で収まりが悪い。
封がしっかり閉じてるけど、
私を侵食したものをこの目で見てやりたかった。
...とは言え細胞なので、顕微鏡でないと何もわからないはわかっている。
...と言うか顕微鏡で見たところで、素人が何もわからないこともわかっている。

医者では毎回平静を務めていたのに、本当は心の収まりすら悪い。
興味と憎悪の悲しい拮抗だった。
失笑は止まらなかった。

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そう、加療するのが当たり前。
まだ30代だし、両親も生きている。順番はなるべく間違えたくない。
ただ、私の死生観とは違う方向に行ってしまったことは確かだ。

もし担当医に“それ”を言ってしまったら、
じゃあ何故医者に通っているの?という話にもなる。
これでは色々マズイ。

でも、でも、いや、でも...
と念仏のように言葉で頭が埋め尽くされながら、
青信号に変わった横断歩道を渡った。

こちらに向かう歩行者とあちらに向かう私含め歩行者は、
こうやってうまくすれ違っていく。
何故私は全てが拮抗しているのだろう。
何に抗っているのだろう。

“向こうから手を繋いで歩いてきたお母さんと子どもの姿に
とうとう顔が歪み、嗚咽した。”

全ての根源は此処だったのだけれど。

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「両親も生きている。順番はなるべく間違えたくない。」
それを理由に踏ん切りをつけた。
それでもまだ拮抗は続き、
全身麻酔から意識がしっかり戻った時も涙が止まらず
「悔しい」と呟いていた。
それは自身ではコントロールができない何かに対しなのか、
死生観と違う道に進んでしまったからなのか、
それとも他の何かなのか。

選択を迫られた時、大なり小なり拮抗が起こる。

結局、“それ”を誰にも言うことはなかったが、
じゃあそれで拮抗は終わりというわけではなく、
じゃあどうして行こうか、のゾーンに入った。

弛緩した拮抗は、時にまだ私の視界に入る。
消去などできない。
無視もできない。
水に流すこともできない。
背負い、共に生きるという一つの錘でもある。

ただ「私の寿命は本来40歳前後だっただろう。(たぶん)」という命題は
消去も無視も水に流すこともせず、
そっと心に灯しておきたい。

※もう元気に仕事復帰しています。