右隣の彼女

ふと思い出したことがある。

入院中は医師、看護師、検査技師に会う度
自分の氏名、生年月日を毎度伝える

私は一部壁で仕切られた4人部屋にいた。
仕切りが壁はいえ、意図せずとも声は聞こえる。

私の右隣の彼女は、私と生年月日が近かった。
思い出したのは、
丁度これを書いている今頃が、彼女の誕生日ということ。

-

同い年で、誕生日も数日違い、
更には同じ科の手術を受けるという右隣の彼女に
私は何とも言い難い苦しさのような、同情のような、
でも、同志がいるという希望のような、
勝手に不思議な縁を勝手に感じた。

手術内容は違ったようだけれど
面会時間に訪れる彼女の旦那さまと看護師さんとの3人の会話もそこに感じる温度も
(会話内容までは勿論覚えていないけど)
まるで私を映し出しているようで、
その度に窓の外を遠く眺めてしまう。

きっと彼女も人知れず何度も泣いていたはずだ。

結局顔を合わすことのないまま私が先に退院した。
看護師さんに付き添われ、
壁越しにいるであろう彼女の横を通りすぎ、
そのまま病院を出た。

久しぶりの地上では、桜が満開だった。

-

それから3ヶ月。

定期検査のため医者に行くと、
入口に立派な七夕飾りがあった。

折角だし(いま誰もいないし匿名だし)書いちゃおうと
短冊とペンを取り、迷いなく願い事を書く。

ついでにちらちらと他の短冊を見させていただいた。

「家族みんなが幸せに過ごせますように」
「少しでも健康に暮らせますように」
「病気が完治しますように」

──ここは医者。
其々に見えない背景がある。
患者さんたちの願い事は、悲しくなるほど切実で、尊い。
文字だけ見れば所謂「ありきたりの言葉」だった。
でも、そのありきたりを私たちはどれほど羨むものか。

右隣の彼女は、無事手術を終えただろうか。
予後は順調だろうか。
旦那さまとの会話は朗らかだろうか、楽しいだろうか。
無事誕生日を迎えられただろうか。

-

私が短冊に書いた願い事は
「良い仕事をする」。

え、もしかして私場違いなこと書いた?
と実は内心冷や汗をかいていたことをご報告します。

短冊は、目立たない場所にそっと括っておいた。
そしてそっと医者を後にした。

そんな7月の初め。

きっと二度と会わないであろう右隣の彼女。
というか顔を合わすことはなかったから会っても2000%わからないけど、
でも、何処かで元気でこの地上で、
良い仕事をしてくれていたら嬉しい。
ありきたりを、噛み締めていてくれたら嬉しい。