只の一日と本能の声と
ちょうどその頃くらいか、
下階から生後間もない赤ちゃんの泣き声が聞こえるようになった。
あの独特の、人間か動物か判断し難い野生的で、何も恥じない、只々本能の声。
丁度自身の誕生日付近の出来事で、妙に印象的だった。
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誕生日になると思い出すのが、中島みゆき氏の「誕生」。
初めて聞いたのは小学生の頃。
母が運転する車の中で聞いた記憶がある。
歌詞のワンフレーズ、「生まれてくれて welcome」が小学生なりに衝撃的な言葉だった。
「ありがとう」でも「おめでとう」でもなく、
「welcome」って一体何なんだ。何故なんだ、と。
でもその漠然とした疑問には妙な安心感を孕んでいた記憶もある。
誕生日当日、「おめでとう」と友人や家族からメッセージが届く。
其々に「ありがとう」と返信をするが、
どうしても主役感が出てしまうのが恥ずかしい。
人前に出る仕事をしておきながら恥ずかしいとは、
我ながら矛盾しているのは重々承知だが...。
私は誕生日こそ「只の一日」として生きたいと思っている。
勿論連絡を頂くのはとても嬉しい。
でもそう思うのはきっと、
小学生ながらあのフレーズに衝撃を受けたこと自体に大きな意味があった。
これは恐らく、私の人生に於ける議題だった。
生きてよかったのか、ずっとずっと問うている。
この回答はきっと、逝く瞬間にならないとわからないだろう。
こんなことを態々文章に起こしているということすら
回答の一つの材料になるのではないか、とほんのり希望を持っている。
人前に出る仕事をしながら主役感が出てしまうのは恥ずかしい。
どこかでどっと疲れている。
ビル群の合間を縫うように歩き、
ふとした隙間から抜ける空と入道雲を見つけてやっと呼吸ができる。
そんな私は、私に何を求められているのか。
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あの時車を運転していた母からは「おめでとう」に加え、
「こんな暑い日に生まれたんだね」という言葉が添えられていた。
37年前、母はどんなことを思ったのだろう。
私には子どもがいない。そこだけは本当にわからない。
「生まれてくれて welcome」なんて美しい言葉でなくても
それに似たものを思ってくれていたら、と
後部座席から母を見つめる私を思い出した。
Welcomeと思ってくれたことに恥じない生き方をしたいと思った。
(出来るかわからないけど)
今日も下階から赤ちゃんの、
あの何も恥じない本能の声が聞こえる。