エクストリームミーツ

2025年3月某日メモ ──

 「頑張って生きたいというベクトルと漠然とした死にたいというベクトルが同じ強さで対に引き合って均衡が保たれた真ん中に立たされて私はなんとかここにいる、人から見ればどっち付かずで異様見えるかもしれないけれどそれが私の処世術で少しでもどちらかに振れることで、それが私の引き金になってしまうかもしれなくて」

...と、夢とは思えぬ現実味を帯びた言葉で目が覚めた。


そして私自身、私の所謂アンバランスさに驚くことがある。

ただ、これは私にとってはただのアンバランスではなく、処世術。

「生きなければいけないが故に必要なアンバランスさ」と言うとしっくりくる。


2025年9月9日追記 ──

  

私にとっての上記は、

もっと言ってしまうと「本当に死ぬかどうかの確認」だった。

傷のない自傷行為とも言える。

ただ私にとって必要な行為であったことは変わりなく、

表向きには見えなくなっているかもしれないけれど

無意識下では常にこのアンバランスさを保とうとしているかもしれない。

どちらかに振れる勇気など無い。


ありがたいことに

このメモを残した3月からパタパタと動いていたら、

上記のような現実味を帯びた夢を再び見ることはないし、

「死にたいと思いますか」の問いに二つ返事で

「はい」と答えることはなく、今では

「いいえ、でも ──」と答えるだろう。


最後のdiaryから10ヶ月も経ってしまってた。

葛藤というか、調整の期間だった、と思いたい。


下階の赤ん坊の鳴き声は、

自我と意思を帯びる声になってきた。