私は哀しかった


11月某日深夜

寝る前にこの一節を読み、思わず本を閉じた。


喉から、そして胃へ、鉛が静かに降りていくような感覚。

絶望のような納得を覚え、某年前を思い出す。


ここでは「親殺し」という衝撃的な言葉だけれど、

「核」という言葉は言い得て妙。

共に過ごしながら、時折その奥にある絶対的な何かを思い出した。

確実に、あなたの核はあった。


ただそれを言葉にするのはとても恐ろしく

勿論本人には言えるはずもなく

発してはいけないと理解している反面、

発しないと私の漠然とした恐怖は拭いきれなかった。

結局、

「なんか彼、そのうちふと死にそう〜。」

と友人に冗談混じりに放流することしかできなかった。


毎年11月。

恐ろしいほど毎年。

その核を彷彿させる言葉と対面する。

いや、寧ろ無意識下で、自分を納得させるように言葉を探している。

なんならきっと、過去のdiaryにも何度か登場している。

自分でも呆れてしまうほど、何度も何度も繰り返している。


そして今年もこうやって対面する。


記憶は曖昧だ。

何度も繰り返すうち

あの惨劇が少しずつ断片的に、そして朧げになる。

でも決してそれを乗り越えたわけでも、

慣れたのでも、

「もう大丈夫」と言えるものでもない。


もしかしたら感情も同じなのかもしれない。

乗り越えていたとしたら何度も納得する言葉を探すはずもなく、

また他の誰かがそうなってしまうのではないかと怯えるわけもなく、

口では「大丈夫」と言っていたとしても、

その後の鼓動の速さと伴う吐き気を

毎度感じるわけがない。


事実は在り続ける。

私は絶えることなく、ずっと哀しかったんだ。


「覚えてないかもしれないけど、

あんた『彼死ぬかもしれない』って自分で言ってたよ。

色々、偶然だけど。」


惨たらしいその時から幾らか時間が経った時、

友人から言われた言葉が忘れられない。


忘れるつもりは到底ない。

忘れても背いても踏み台にしても慣れてもいけない。

喉から胃へ静かに降りてくる鉛を

甘んじて全て受け入れなければならない。


一生ものの消化しきれない過去を、

あなたへの、そして自分自身への弔いと、

届くことのない纏綿する想いを

私が向こうに行くまでずっと隣で添い遂げることを想った。


今日、空を見ると、上弦の朧月だった。