8月15日


そういえば私は被爆三世ということになる。
厳密にいえば「被爆三世」か「二次被爆者の三世」になるのか微妙なところ。
祖父は原子爆弾が広島に落ちた日に広島にいた。
「あの時広島におったけど○○だったもんで無事で愛知に帰って来れた」と妻である祖母が生前言っていた。
一番重要な○○の部分が頭の中で完全に霞んでしまっている。
「B-29がブワーーっと飛んでてよぉ」と当時に戻った目をして話す祖父を思い出す。
なんだったっけ...。
祖父も祖母も、もう亡くなってしまった。
もっと話をしておけばよかった。

「被爆三世」で調べようとすると予測変換で
影響、病気、隔世遺伝、不妊...と出てくる。
当時の日本では被爆者は差別の対象になっていたということを思い出した。
小学校ぐらいの時に知った記憶だからか、とても懐かしい感覚。
私に原子爆弾の影響が出てるのか関連づいた病気を持っているのかもしかしたら不妊なのかそもそも隔世遺伝しているのかどうかはわからないけど、現時点で私は程よく生きています。

当時は全てがわからなくて、ただ生きることに必死で、
病気だの遺伝だの不妊だの何だの可能性として挙げられるものを列挙し長らく騒ついていたのだろう。
しかし戦後76年経ち、「被爆者差別」意識はほぼ無くなってきている。
現に私も「そういえば」「懐かしい記憶」と言ってしまっているほど。
この差別意識がなくなるのは、良いことなのか、それとも悪いことなのか。

上記写真は読了した宮地尚子氏のエッセイ「傷を愛せるか」からの一説。
宮地尚子氏は「トラウマ」で有名な精神科医師。
作中では主にベトナム戦争帰還兵の映画「MISSING IN AMERICA」に触れてこの一説を書かれている。
読了した日は8月15日。
頭の中で色々結びつく。

私の傷は、ほんの少し振り返ればありありと目に浮かぶ。寧ろ目の前に現れる。
氏が言うように、それらは傷ではあるけれど、その傷たちに助けられていることが数え切れないほどある。
あの時、自ら終えなくてよかった。

愛知に帰省してお仏壇に手を合わせたい。
お墓参りがしたい。
家族に会いたい。
当時の私の傷たちを、もっと近くで思い出したい。

隔世遺伝と言えば、わたしの鼻は祖父譲り。