ただの一日

 


確実に着実に一年を重ねていくごとに、私の誕生日は「ただの一日」となっている。
ついこないだであろう(審議) 20代初頭はクラブや旅行先やレストランでお祝いしてもらい、本当は苦手なサプライズ演出も恥ずかしさはあるものの私の中は暖かい空気で満たされたものだ。

とにかく辛く、苦しく、希死念慮に支配された記憶しかない20代は誕生日を皆んなにお祝いしてもらうことによって「この一年なんとか生きることができた」と思うことができた。
それが昨今「ただの一日」と変化してきていることに気づき、安心している。苦しみ過ぎなくて大丈夫だよ、と20代の私に伝えてあげたいほど。

これを年の功と言ったらそこまでかもしれない。
けれど、誘惑の死の影を必死に追い払い、それでも支配し続けるその想いと隣り合わせで共存しながら、息も足取りもおぼつかない満身創痍の状態で誕生日を迎えていた私にとって、
ただの一日こそ所謂幸せなことはないのかもしれない。
「普通」が如何に難しいことか。

起動が苛つくほど遅くなったパソコンの中に大量に取り込まれている過去のデータ達。
手元のデータと見比べると時間を重ねてきたことがはっきりとわかる自分の顔が並ぶ。
肌のハリも目の下のクマも目尻の皺もほうれい線も(残念ながら)もちろん違うが、
それは劣化でははなく熟し続ける変化だということを、併せて20代の私に伝えてあげたい。
未だに独特の苦しさと辛さは余裕で感じられるし、希死念慮も消え去ってはいない。
でも総じて大丈夫だよ、と。今のあなたよりかは良い顔してるよ、と。

さて、現在この顔の私は今年何をしましょうか。
とにかくまだ安全とは言えないこの情勢の中なのではあるけれど、健康に過ごす。
モデルとしては、これまでの時間を忘れないまま自分を追求していく。
自分も他人も、見続ける。想像し続ける。そして書く。
–––といったところでしょうか。

番外編として、
欲しいものは納得できる国語辞典。
隠れ目標はウーバーイーツ/ 出前館の利用頻度削減、バク転ができるようになること。
20代の頃から引き続き、座右の銘はメメント・モリ。

また来年も、この見慣れすぎた月と日にちを「ただの一日」として無事迎えられますように。