より私に近しい
過去の自分のインタビューを読み返していると、興味深いことを言っていた私を見つける。
これは口頭インタビューで、録音されたものをライターさんが編集/構成してくださったものだ。
(と言っても恐らくほぼ手は加えられていない)
口頭だと自分でも驚くような言葉や表現が口からポロリと出てくることがある。
頭で考えていることと、肚が感じていることは差異がある。
もっと私に近しい私が発したようにも見て取れる。
この一節を読み直して、自分がどのような心持ちで仕事をしているかが痛いほどわかった。
写真は尊く、同時に恐ろしい。
写真は無言だ。
動画の何十分の何の一片を切り取られる。
その一片で”伝える”とはどんな畏れ多いことだろう。
私はスマホで簡単にパシャパシャと撮ることができる写真が苦手だ。
撮ってもらう場面は一旦置いといて、自分では進んでやることができない。
「綺麗に」「可愛い」一片を納めるものが写真だとはどうしても思えない。
その一片の密度。
カメラの前でのHAKOと同時に、葉子がどこかで冷静にHAKOを見ている感覚。
「辛い」とはそこから来ているのではないだろうか。
HAKOと葉子が共有している身体を、そこに嘘偽りがないか遠くから見ている。
各々二人が過ごした時をも共有する。脆弱な時も強靭な時も。
それが密度として表れるのとしたら「辛い」と言う表現も納得ができる。
決してネガティブだけの意ではない。
無言の世界で、私たちは伝えられるものは何でしょう。
仕事で知り合った人は(当たり前だが)その後私を「HAKO」と呼ぶのだけど、
稀に「HAKO」と「葉子」を使い分けてくださる方と出会う。
そこに大きな意図はないとしても、
実はちょっと嬉しい。