無慈悲、東京と私

低気圧のせいでしょうか。頗る体調がよろしくなく、今日は本当は引きこもっていたかった。
朝起きたら空は白く、今にも雨が降りそうなのに、降らない。このもどかしさがまるで私そのもののようで、夕方からのオーディションも、「体調悪い」と断りの電話を事務所に入れてしまおうか本気で悩んだほど。(結局行ったけど)

そういえば今日は金曜日で更に見事に月末で、渋谷は建物と人間しかいなく、空気1ミリも感じないほど窮屈だった。私なんて零コンマ何秒で消えてしまえるぐらい、どうでもいい存在なのではないかと思ってしまうぐらい、建物と人間で成り立つ街。

バスには運良く座れた。私に背を向け真横に立つサラリーマンの方の両手に下げた荷物が肘に当たる。金曜日、月末。浮かれてるか疲れてるか二択の人間しかいないんだろうなと、私自身悲しくなる。

それでもなんだろう、ザンザンと流れる窓の外の灯りを見てたら、存在していたいという人間の欲でしょうか、無性に泣きたくなって、私の中にあるもどかしさを出してしまいたくて、久しぶりにイヤホンをつけて、バスに揺られながらひっそりと泣いていた。
私が浮かれていない人間だからか、疲れている人間と同じだからかはわからない。
バスの中で泣いてる人なんて然程見たことがない。窓の外を見て何かを想ってる人も然程見たことがない。皆と違う私が、余計惨めで悲しくて、その中で生きていかなければならないことがしんどいとすら思う。
私が泣いていたら、周りは変な目で見るだろう、声をかけてくれる人なんて皆無だろう。浮かれてるか疲れてるか、その人たちに、人を心配する余裕がある人なんて、殆どいないだろう。

なんて思ってたらバスが最寄駅に着いた。
私含めて3人降りた。向かう方向は一緒で、そのうち1人は私の住むマンションの並びにある家の人だった。その家を通り過ぎて、マンションの下に着く。

約2時間ほど外に出ていただけだけど、私の眼と頭の中には映画のような映像が流れる。
そんなこと感じようとしなければ、感じないこともできるだろう。けど、私はやはり、そうはできないらしい。

しんどさを負いながら、私は明日も私であって、明日も明後日もそうであるでしょう。
理解していても、たまに来るこのもどかしさ。そしてまたふりだしに戻ると同時に私を取り戻す。
私への戒めのようなものかもしれない。

明日はまたいつかの時間に、このマンションやあの家から私やあの人が出て行って、いつかの時間に帰ってくる。危うさももどかしさもあったとしても、そうであって欲しい。

空は何色かはまだわからないけど。

#hakodiary