右も左もわからなかった5年前、尊敬する先輩から言われたのは、「ナチュラルがやれないと何もできないよ」という言葉。
「ただ、ぼーっと立ってぼーっとカメラを見てるだけでいい」と言ってくれたけど、今思うとあの言葉は私にプレッシャーをかけないようにするために、その真髄を優しい布で包み込んで渡してくれたようなもの。いまはその「ナチュラル」が一番恐ろしいものでもある。




そもそも13年前、「モデル」という仕事のスタートがガチクソのクリエイティブ。ヘアもメイクも衣装も、一ヶ月以上作り込まれたもの。スタート位置から既にナチュラルの真逆。ずっとその世界にいたわけだから、身体の癖も、現場の空気を汲み取りすぎる癖も、抜けない。「作ってナンボ」の世界だった。現にそう言葉にしていた。




休憩期間をいただいてる今、今までの映像という映像がネガ続きになって頭の中をよぎり続ける。5年前と13年前の二つの原点を思い出す。アウトプットをしなければ「作ってナンボ」出身の身にはやはり堪えるみたい。ヨガマットの上で音を流してみる。



「立つ」ことが、こんなに難しいのか。ただぼーっと一点を見続けることが、シンプル過ぎて、複雑。


わたしは、ただの1枚の写真かもしれないけど、動画の1秒に比べたら何百分の1かもしれないけど、写真にもその人のなかは写ると思ってる。その人が、何を見て、何を感じて、何を学んで、何を考えていて何を欲していて、実は全て曝け出されるものだと思ってる。
便利になってしまったこの時代、どこにいても誰でもいつでも創り出すことはできるけど、だからこそ本質を捉えてるものってやはり違う。意地悪な言い方をすると、良いと思わないものはわたしの中にはなにも残らない、その分と引き換えに良いと思うものはより輝いてみえる。記憶にも心にも刻まれる。
曝け出されるものだから、テストだとしても、なかを搾り出さないと。




「在る」という言葉をいただいた。
「居る」のではなく、「在る」。そこに立ってるだけで「在る」って感じだよねー、と。

シンプルだけど、複雑すぎて難しい立つということ。
存在する、という漢字のとおり。生きている様を表す。
それができないと、なにもできない。

その言葉をいただいて素直に嬉しかった。
曝け出される怖さとともに、わたしがやっていきたい根本を、改めて理解できた。

ph @rikiyanakamura
#アウトロー感否めず #hakodiary